撮影日記


2002年11月22日(金) 天気:はれ

可部線存廃問題に思う

第3セクターによる運営断念のニュース

「可部線の第3セクター方式による存続を断念」を,沿線自治体などでつくる「可部線対策協議会」(1985年設立)が発表した。これで沿線自治体による第3セクター方式による存続は可能性がなくなり,JR西日本が予定通り「廃止届」を国に提出し受理されれば,2003年11月末で,可部線の可部と三段峡の区間は廃止となる。すでに先週,戸河内町,加計町が相次いで先行して表明したことが報じられていたせいか,報道内容はいたって淡白な印象を受けた。
 さて,このような結論に至ったことは,沿線自治体にとっては大きな問題であろう。
 ただ,ここで「沿線自治体」というとき,おもに意識されるのは加計町と戸河内町くらいだろう。しかし,ほかに筒賀村や湯来町もかすめていること,廃止区間のかなりの部分(21駅中7駅)は広島市内であることも,意識しておきたいと思う。

結論に至る経緯

可部線は,国鉄分割民営化のころから「廃止」が話題になっていたが(実際には開通前からそれを危惧する声はあったというが),1998年にJR西日本が「可部−三段峡の区間を廃止,バス転換」を表明してから事態は急転したと言える。
 当初,「2000年3月末で廃止,バス転換」を計画したJR西日本だが,「地元の要望を受けて」として判断を保留し,「試験増便」をおこなってその結果により最終判断をすることになった。最終的な「廃止」という結論に至るまでは,さまざまな事情があったものと想像できるが,表面的には「乗客増の可能性」を「試験増便」という「実験」にて検証したことになっているようだ。この試験増便について,「民間企業としての最大限の良心である。」という見方をする人もあれば,「形式だけのもので意味がない。」という見方をする人もある。そもそも,この存廃問題についても,さまざまな立場から問題がとらえられており,さまざまな見方が存在しているようだ。
 ところで,「試験増便」について不透明な部分を指摘する声がある。たとえば,目標とされた輸送密度の数字の絶対的な根拠(なぜその数字が必要なのか)や,乗客のカウント方法などに対する疑問である。乗客のカウント方法については,1回目の試験増便期間中の2000年12月9日の新聞で,JR西日本広島支社長のコメントとして「(対策協議会とは)乗客数のカウント方法が違う」というものが報じられていたが,これが具体的にどういうことを指しているのかは不明である。

可部線は本当に必要ないのか?

試験増便をおこなっても,利用者に顕著な増加が見られなかったという結論が出たわけである。これは何を意味しているのだろうか?試験増便は,加計,戸河内方面から,広島方面への通勤通学者が可部線に移行する可能性を調べることが狙いだったと思われる。休日の臨時快速を除けば,朝の広島方面行きと,夜間の三段峡方面行きを増発していたことからも,それは伺える。しかし,加計,戸河内方面は過疎の問題を抱え人口が減少傾向にある現実がある。これら通勤通学利用者だけでは,JR西日本に廃止を断念させられるだけの「数字」を出すことはできなかったということである。
 しかし,そういう厳しい状況は十分に理解されていたようだ。存続運動は,単純な「(自分たちだけが)乗って残そう」運動にとどまらなかった。いわゆる「町おこし」運動ともリンクして,都市部との交流をはかり,多くの人に訪れてもらおうという形になっていた。このことは将来,一連の存続運動を振り返るときに,もっとも評価されるべき点であろう。地域にはまだそれだけのパワーは残っていたし,なんといっても可部線は「特別名勝 三段峡」という1級の観光地と,広島市という大都市を直結している。
 このように可部線にはさまざまな可能性が含まれていた。ここまでの経緯の中で,その可能性を生かそうと考えなかった人がいたとすれば,その人は後々,大きく悔やむことになるのではないだろうか。


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