撮影日記


2000年09月02日(土) 天気:はれ

情報教育とは

つい最近まで,「情報教育」「情報処理教育」というと,それはすなわち「コンピュータを使えるようになること」であった。しかし,ここ1年ほどの間に,「情報の選別能力」や「情報倫理」などが大きな話題になっているようだ。いまさら,「情報機器」の使い方などは,専門の技術者を養成するときを除けば,あえて教育する必要はないということだろう。
 インターネットおよび,WWWという環境は,1つのインフラとしてしばらくは主流にあると思う。しかし,WWW上を流れる情報の形式は,日進月歩で新しい技術が反映されてくる。最新の技術を追いかけるのも,1つの楽しみ方だろうが,むしろその内容が肝心であることに,ようやく人々は気がついたといえるだろう。
 WWW上の写真にしても,最初は「写真を掲載できた」ことに価値があったわけだが,今はその作品としてのクォリティが問われているのである。WWW上には,多種多様な情報があるが,その信憑性やクォリティには,信じられないくらいの格差があると考えてよいだろう。

さて,神戸で,ちょっと変わった(というと,失礼かな?)写真展が開かれていた。「キャンバスフォト」というらしい。プリントした写真から,エマルジョンを剥がし,キャンバスにプレス加工するらしい。独特の雰囲気が得られるようで,それに適した「絵」を用いれば,素晴らしい作品群になったことと思う。
 惜しむらくは,展示されていた「絵」の過半数は写真としてはありきたりな被写体に構図で,特にキャンバス加工であることを活かしていると感じられるものは,一部に過ぎなかったことである。これも,WWWと同じように,技法の完成から作品としての完成への途上にあるものと思われる。
 「ありきたり」という表現を使わせていただいたが,だからといって,誰にでも撮ることができるような写真であるという意味ではない。ともあれ,他人の作品を見ると,創作意欲がわいてくるというものである。

ギャラリーを借りて,写真展を開くには,それ相応の手間,時間や費用が必要である。したがって,写真展を開く人は,アマチュアであっても,少なくともかなり熱心に写真に取り組んでいる人である。それらの作品には,技量や好みの差はあると思うが,やはりそれなりのレベルにあることだろう。写真作品に「得点」を与えるという行為は,ナンセンスであるとは思うが,仮に得点を与えたとしたら,それらの作品の得点は,きっと正規分布をするだろう。
 しかし,写真を撮る人は多い。それらすべての写真に得点を与えたとしたら,その得点は正規分布をするだろうか?おそらく,それなりのレベルに達しているものはわずかであろう。多数の「作品とは言い難い作品」がピラミッド型の底辺を占めることになると考えられる。写真雑誌のコンテストを考えてもよいのではないだろうか。数多の読者があり,少数の熱心な投稿者があり,そのさらに一部だけが,掲載されるのである。
 したがって,下の方の層ほど,人口が多い。すると,少し腕が上がったとすれば,自分よりも「へた」な者が,大量にあらわれることになる。

そこで,勘違いする者が出てくる。
 「私の作品を見て,感想をください。」
 本人は,「うまい」と思っているのである。実際,それを「うまい」と誉める人は,少なくないのである。そこに,素直な感想を送ると,どうしたことか返事がこなくなったりする。これは,いったい,どういうことだろうか?

人は,もっと謙虚にならねばならないだろう。
 そして,尊大な人が,本当にそれだけの人物かどうか見ぬく力が必要である。
 一般的に,「自慢をする人」「他人を悪く言うことで,自分を相対的に高く見せようとする人」の発言は,その真意がどこにあるのか,またその理論はどこまで客観的に評価できるのかについて,十分に注意が必要である。
 これこそが,これからの「情報教育」のポイントと言えるだろう。特に,WWW上の情報の多くは,素人がなんの制約も受けずに自由に発表しているものである。そこが魅力であると同時に,危険なものなのである。


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