撮影日記 |
---|
2006年01月20日(金) 天気:曇富士フイルムからの希望を持てる発表先週の,「ニコン様が35mm判カメラから事実上撤退」という重大発表以来の10日間は,実に騒然とした10日間だったと思う。 ディジタルカメラは,その機械に使われている撮像素子や,組みこまれているソフトウェアによって,得られる画像のクオリティは決定されている。部品交換やソフトウェアのバージョンアップなどで,改良される可能性はないとはいえないが,これらの部品やソフトウェア技術がまだまだ発達していく途上にある現在では,現在のディジタルカメラは,数年後のディジタルカメラには,逆立ちしたって追いつけなくなっている状況は,必ずあるだろう。 それに対してカメラというものは,フィルムだけが独立して改良されていくものである。50年前のカメラに,現代のフィルムを装填して撮影すれば,そのカメラやレンズに致命的な故障が生じていない限り,50年前よりも高品位な画像が得られる可能性が高いのである。アグファやコニカの撤退によって,そういう重要なポジションにあるフィルムの選択肢が減ることは,写真と言う表現方法にとっての大きなダメージであることは間違いない。とくに,アグファやコニカのフィルムを主に使っていた人にとっては,計り知れないダメージがあっただろう。しかし,現状を鑑みれば,フィルムが残るだけ,まだ救われていると考えるべきであろう。 今後,コダックやフジも,ラインアップを整理してくる可能性は高いだろう。また,モノクロフィルムや処理液などは,値上げされる傾向にある。これらは,供給を持続するための必要な措置であれば,ユーザとしては受け入れるしかないことだろう。やがては,水銀電池や127フィルムのように,特定の国だけでほそぼそと生産されるような位置づけになってしまうかもしれないが,富士フイルムの声明にあるように,写真は人間にとってなくてはならないものである。需要が減少した,というくらいの要因で「なくなってしまう」ことはないものと信じたい。もし,「写真」「フィルム」というものの終焉の日が来るとすれば,それは単純な経済問題ではなく,資源や環境負荷の問題によるものだろうと想像する。 昨日に続いて,ここで,結論(といっていいのかどうか・・・)。 フィルムさえあれば,大正時代のカメラでも撮影可能である。この場合は,4×5判シートフィルムを適切な大きさにカットして撮影した。 |
← 前のページ | もくじ | 次のページ → |