撮影日記


2006年01月20日(金) 天気:曇

富士フイルムからの希望を持てる発表

先週の,「ニコン様が35mm判カメラから事実上撤退」という重大発表以来の10日間は,実に騒然とした10日間だったと思う。
 ニコン様は「事実上撤退」とはいえ,ごく一部の製品はしばらく継続して生産・販売されるし,ディジタルカメラについては,これからも開発を続けるという。さらに,カール・ツァイスないしコシナは,一部のマニア等に対応できる製品を発表し,これはニコンユーザに対しては「選択肢が広がった」という安心感をフォローするものとなった。しかし,昨日のコニカミノルタの発表は,あまりにも衝撃的なものであった。
 その興奮冷めやらぬうちに,今度は富士フイルムからも声明文が発表されていた。
 (http://fujifilm.jp/information/20060119/index.html)
 その内容を一言で言えば,「富士フイルムの使命は,写真文化を守り育てることであります。」ということである。
 ディジタルカメラの普及の前に,アグファ,コニカ,ミノルタという,フィルムやカメラの伝統的ブランドが消滅していったという現実がある。このまま,カメラは次第に製造されなくなり,その影響でやがてはフィルムの製造やDPEなどのサービスもなくなっていくのだろうか,そういう心配をした人も多いのではないだろうか。こういう一連の流れに対して発表された富士フイルムの声明は,写真を愛する人たちに,大きな希望を与えてくれたということができるだろう。カメラは,ディジタルカメラと違って,長く使っていくことができるものである。
 ディジタルカメラは,その機械に使われている撮像素子や,組みこまれているソフトウェアによって,得られる画像のクオリティは決定されている。部品交換やソフトウェアのバージョンアップなどで,改良される可能性はないとはいえないが,これらの部品やソフトウェア技術がまだまだ発達していく途上にある現在では,現在のディジタルカメラは,数年後のディジタルカメラには,逆立ちしたって追いつけなくなっている状況は,必ずあるだろう。
 それに対してカメラというものは,フィルムだけが独立して改良されていくものである。50年前のカメラに,現代のフィルムを装填して撮影すれば,そのカメラやレンズに致命的な故障が生じていない限り,50年前よりも高品位な画像が得られる可能性が高いのである。アグファやコニカの撤退によって,そういう重要なポジションにあるフィルムの選択肢が減ることは,写真と言う表現方法にとっての大きなダメージであることは間違いない。とくに,アグファやコニカのフィルムを主に使っていた人にとっては,計り知れないダメージがあっただろう。しかし,現状を鑑みれば,フィルムが残るだけ,まだ救われていると考えるべきであろう。
 今後,コダックやフジも,ラインアップを整理してくる可能性は高いだろう。また,モノクロフィルムや処理液などは,値上げされる傾向にある。これらは,供給を持続するための必要な措置であれば,ユーザとしては受け入れるしかないことだろう。やがては,水銀電池や127フィルムのように,特定の国だけでほそぼそと生産されるような位置づけになってしまうかもしれないが,富士フイルムの声明にあるように,写真は人間にとってなくてはならないものである。需要が減少した,というくらいの要因で「なくなってしまう」ことはないものと信じたい。もし,「写真」「フィルム」というものの終焉の日が来るとすれば,それは単純な経済問題ではなく,資源や環境負荷の問題によるものだろうと想像する。

昨日に続いて,ここで,結論(といっていいのかどうか・・・)。
 今,私たちにできること,今,私たちがするべきことは,今までと同様に,フィルムで写真を撮ることである。

フィルムさえあれば,大正時代のカメラでも撮影可能である。この場合は,4×5判シートフィルムを適切な大きさにカットして撮影した。

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