撮影日記


2002年12月02日(月) 天気:はれ

可部線存廃問題に思う(6)

東北新幹線「八戸」開業

2002年12月1日,東北新幹線の盛岡−八戸の区間が開業した。ちょうどその前日に東京に出かけていたので,各駅ではそれを知らせる大きなポスターが多く貼り出されていたのを目撃することになった。ただ,八戸方面は冬の観光コースなどがまだあまり開発されていないらしく,話題性は今ひとつらしい。ところで,東京では,可部線の廃止届が出されたという情報はどのくらい知れ渡っているのだろう?
 残念ながら,11月30日に,東京でテレビや新聞を十分にチェックする余裕はなかった。そこで,広島に帰ってきてから,各社の新聞(全国紙4,地方紙1)をあらためてチェックしてみた。すると,地方紙のみ1面で扱いがあったが,4つの全国紙ではすべて「地方面」での扱いである。東京や大阪では,これらの情報が伝達されていないことすら可能性がある。
 ところで,これらの新聞を見くらべて気がついたことがある。JR西日本側のコメントとして報じられた内容の中で,「(可部線の乗客は)1,2人」という「数字」を伝えていたのは,私がたまたま最初に見た全国紙1紙のみであった。やはり,新聞はいくつかくらべて読んでみないと,おもしろくない。この場合,この「数値」をこの新聞が伝えた(あるいは,ほかの新聞が伝えなかった)意図や背景事情は,どのようなものがあるのだろう?

ワイドショー的論理展開

最近,あまり耳にしなくなったような気がするが,一時期,いわゆるテレビの「ワイドショー」による過激な情報伝達が話題になっていた。そこでは,「知る権利」と「プライバシー」が対立していたが,その一連の事件が現在の「情報公開」や「個人情報保護」の考え方などを受け入れやすくする下地を形成していたのではないだろうか。「ワイドショー」とは本来,難しい事象をわかりやすく伝えることを目的に考えられた番組であると聞く。「情報公開」「個人情報保護」については,たまたまうまく「こじつけ」ができただけかもしれない(^-^;が,「ワイドショー」本来の目的に合致し,これらの問題を広く国民に意識させることに貢献した。と,言ってもいいのかな?(笑)
 さて,個人的に「ワイドショー」というものに対して持つイメージは,あまりよいものではない。これらのテレビ番組では,単純に「なにか悪いもの」を設定し,それを攻撃することで「(自分たちの)こういう考え方が正しいのである」という話のすすめ方をしているように感じられるからである。このような勧善懲悪ドラマ的な話の展開は,「話をわかりやすくする」という,「ワイドショー」にとって不可欠な要素に,大きく貢献していることだと思う。
 誰しも,「悪玉」になって「懲らしめられる」よりは,「善玉」として「懲らしめる」立場になりたいであろうから,こういう話の展開は,見る人から支持されやすいだろう。しかし,これを「報道」的な場面で使うと,メディアによる情報操作がおこなわれることと同等な効果が生まれやすいと思われる。このような効果を,個人的には「ワイドショー的論理展開による効果」と呼ぶことにしようかと思う。

責任の所在はどこにある?

「ワイドショー」に限らず,あらゆる「意見」は,なにかすでにある事象に対して,それをよくするためにはこうすればよい,という内容になっているだろう。だから,勧善懲悪的な論理展開も,単純に否定されるべきものではない。
 現在,さまざまなメディアでさまざまな情報が伝えられている。現代社会においては,それらの情報を鵜呑みすることなく,発信者の意図を読み取るような能力が必要とされている(メディアリテラシーの考え方)。そうすると,かつてマスメディアは「意図的」に「赤字ローカル線は田舎政治屋のエゴによる悪なので廃止は当然」という論調を作り上げてきたのだろうか?という疑問がおこり,もしそうだとすればその意図はなんだったのだろうか,ということが気になってくる。すると,単純に「○○が悪い!」という言い方をすることは,愚かなことと感じられてくるかもしれない。
 なにか問題に対して,その責任の所在を明確にすることは,問題解決の手順や手段を探るための,重要なステップの1つであろう。しかし,単に責任の所在の追及だけにこだわったり,さらにその責任の所在者に対してなんらかの「見返り」を要求することが主眼になってしまっては,肝心の問題の解決からはかえって遠ざかってしまうと思われる。


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