撮影日記


1997年04月27日(日) 天気:ぐっどです

写真上達法

「写真がうまくなりたい」と思っている人は少なくないことだろう。私のような未熟者が「上達法」などという偉そうなタイトルで文章を書いてはいけないとは思うが,これは,私が「こういう点を意識すれば,多少は上達できるかな」と思ったことを書き連ねたものである。ある程度,割引して読んでいただいていいと思う。

なんといっても,写真は「写らなければ評価の対象にならない」。写ってナンボのものである。そこでまずは技術的な知識と実践が必要になる。こう主張すると,「今は,写真は押せば写る時代だから,そんなものは必要ない。」という反論も聞かれる。果たしてそうだろうか?
 機材にこだわる人を嫌う人もみかける。最近はコンパクトカメラでもかなりよい像を結んでくれるから,その主張も間違いではない。また,一部のコレクターと呼ばれる人には,私も嫌悪感を覚えることがある。写真を撮ることを完全に忘れてしまったような人がそうだ。しかし,撮影対象に応じた適切な機材というものがある。そのことを忘れてはいけない。
 さらに,写真を見る「目」あるいは「センス」とか「感性」とか呼ばれる感覚的な要素も重要である。よい被写体を見つける「目」,バランスのよい構図をつくる「目」,ふつうの人が見過ごしてしまいそうな被写体のニュアンスを感じる「感性」をもって写すと,写真はもっとよくなる。

よい写真を撮るには,「確かな技術」「適切な機材」「研ぎ澄まされたセンス」の3つの要素をバランスよく身につけることが大切だと思う。

ところで,「センス」の重要性を主張することを好む人は多い。
 これは私も同感である。「機材」はある程度のお金があればすぐにそろう。「技術」は,カメラの自動化が進み,その精度もよくなっているため,そこそこのレベルまでならすぐに到達できる。しかし,「センス」だけは本人の精進と持って生まれた才能のようなものに左右される。「センス」の向上はこの3要素の中でもっとも難しいと思うからだ。
 カメラの性能向上によって,技術的な知識を十分に持たなくても写真はちゃんと写るようになった。そのせいか「技術は不要だ」と勘違いしているのだろう,「センス」だけを主張しているような人も見かける。これはいただけない。いかにすぐれた「センス」をもった人でも,まともに写せなければ単なる「ヘタクソ」である。
 写真は,シャッターを押せばとりあえずは「写る」から,はじめてカメラを使う人でもフロック的に「絵になる」写真が撮れることもある。これは,その人のセンスなどよりも,「偶然」「運」という要素が大きいであろう。

私はこれら3つの要素を向上させるには,「予習」→「実習」→「復習」→「試験」の繰り返ししかないだろうと思う。
 「予習」としては,本を読んで技術的知識を得る,他人の写真を見て自分の撮りたい写真をイメージする,その写真を撮った人にどうやって撮ったのかを教えてもらう,などの行為が考えられる。
 「実習」も真剣におこなう。自分の撮りたいイメージをさがしたりつくったりする。すでに得た技術的知識をフルに活用して,撮影をおこなう。ただ闇雲に撮るだけでは,3つの要素の向上につながらないと思う。シャッタースピードや絞りなどの露光データを記録する人も多いようだが,私はその重要性を見いだせない。光や被写体の状況は刻々と変化する。同じ条件の被写体は2度と存在しないといってもよいだろう。もし,記録するなら,「自分が被写体のどこを基準に測定したのか」「その測定結果をどう判断して補正をおこなったのか」などの相対的な状況を正確に記録しなければ無意味なのだ。とくに初心者のうちは,データを記録する余裕があるなら,その分だけもっと真剣に被写体と向かい合うべきであると考える。データをとっただけで「勉強したつもり」になるのが最悪だ。
 「復習」も大切である。撮った写真ははやく現像し,その仕上がりを確認する。時期が早ければデータを記録していなくても,測光したときの状況はまだ記憶にあるだろう。自分が得た知識がちゃんと活かされているかどうか,反省が必要である。さらに,撮った写真はきちんと整理しておきたい。整理のできない人は3要素の向上が難しいのではないだろうか。
 「試験」もときどきは受けたい。「試験」という言葉で例えたが,つまりは「他人の批評を受けること」である。仲間同志で批評会をするのもいいだろう。私のように,ヘタでも堂々とWWW上で展示して,忌憚ない意見を募集するのもいいだろう。

だから私は,私の撮影した写真について「ヨイショ」ではない,ストレートで客観的な意見を多く聞きたい。


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