撮影日記


2019年08月31日(土) 天気:雨ときどき晴

昭和10年ころのカメラはなに?

今日も,近所にできていた書店「スタントン」を訪れた(2019年8月12日の日記を参照)。児童書のほか,大阪に関連する書籍を集めておられるようである。そのなかで,とても気になったこの本を買ってしまった。

現代(本書の発行は2017年)の小学生の女の子が,曾祖母から,昔の話を聞くという形式になっている。そのころの曾祖母の年齢は,この女の子と同じ10歳くらい,そして語られる時代が昭和10年,場所が大阪の街である。当時の地下鉄やデパートのようす,そこで売られていたおもちゃや食べ物などが描かれている。恐慌や戦争などがあって,とかく暗いイメージになりがちの昭和初期にも,明るい時期があったということを知らせてくれるような内容になっている。
 さて,この「撮影日記」をご覧いただいている方には,昭和10年の父親がもっていたカメラに注目していただきたい。

この父親は,「写真を撮るのが好き」で,「どこへ行くときもカメラをもっていた」という。
 このころになれば,カメラ販売店も多くあり,大金持ちでなくてもカメラをもてるようになっていたとは思うが,それでも,決して安いものではなかっただろう。しかもこの父親は,休日に遊びに行くときにも,スーツを着用している。それなりに稼ぎがあったと,考えられそうである。

さあ,このカメラはなんだろう?

手元には,昭和10年発行の「アサヒカメラ」がなかったので,比較的近い,昭和11年7月の「アサヒカメラ」を参照する。

そこに掲載されている販売店(無三四堂四谷支店)の広告を見てみよう。

商品ごとに「S」や「A」という記号がついているところから,これらのカメラは比較的状態のよい中古品だと思われる。

たとえば,ライカDIIIで615円〜640円,F3.5のエルマーがついたものならば320円〜340円である。F1.5のゾナーがついたコンタックスは,830円もする。

この当時の物価は,どれくらいのものだっただろうか。

読売新聞社発行「日本の100年 新聞に見る明治・大正・昭和」(1968年)をめくっていると,228ページに昭和9年の記事があり,その欄外に「東京のチョンガー生活」という短い記事がある。それによると,「工員が30円〜40円,事務員が40〜60円の収入」「背広は既製品で15円,オーダー25円見当,ただしイギリス製生地だと60円以上」「靴は既製で5円,注文だと10円以上」とある。商品によって違いもあるだろうから現代との単純な比較はできないが,あえて乱暴に換算するならば,額面で3000〜5000倍くらいになると考えてよいのではないだろうか。
 そうすると,安くても300円はするライカは現在の90万円以上の感覚であり,コンタックスだと300万円くらいということになる。これは,ちょっとくらい大きな会社でちょっとくらいの役職についていたところで,ポンと買えるものではないだろう。

あらためて,描かれているカメラをよく見ると,正面の蓋が向かって左に開くようになっている。このようなスタイルは,いわゆるスプリングカメラに見られるものだ。少なくとも,ライカではない。
 このころ多かった,セミ判(120フィルムを使って約4.5cm×約6cmの画像を撮る)あるいはベビー判(127フィルムを使って約3cm×約4cmの画像を撮る,ベスト半裁判)のカメラであれば,蓋は下あるいは右に開くものが多かった。また,蛇腹がもっと目立つはずである。したがって,それらのカメラでもない。
 ファインダーがボディの上に取り付けられていることも含めて考えると,このカメラはKodakのRetina I型あるいはそれを模倣したカメラであるように見える。さいしょのレチナは,1934年に発売されている。昭和10年にレチナを使っているということは,当時,最新の舶来品を使っていたということになる。

さきほどの「アサヒカメラ」を参照すると,レチナの価格は195円である。

同様に乱暴に換算すれば,現在の60〜70万円くらいの価値になるであろうか。これならば,ちょっとがんばれば,買えそうである。
 少なくともこの父親は,当時それなりの高給取りであったのだろう。その人に育てられた女の子は,当時としてはそれなりにいい暮らしをしていたと考えられる。残念なのは,そういう明るい時代が長くは続かなかったことだ。この約10年後,ちょうどこの女の子が成人するころの大阪では,「パンプキン!」で取り上げられたような出来事などが起こっているのである(2019年8月12日の日記を参照)。


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