撮影日記


2019年05月21日(火) 天気:晴

合成による写真表現

写真というものは,撮影すれば終わりというわけではない。最終的に,どのような形で見せるのかが重要である。ポジフィルムの原版を見せなければならない場合を除いては,最終的な出力形態に応じた適切な調整が施されることになる。被写体本来の色などを忠実に再現するように調整される場合もあれば,あえて色や明るさなどを強調して調整される場合もある。また,不要なところを見せないように,トリミングがおこなわれることもある。そのような調整を嫌う人もあるが,おそらくポジフィルムを使い,その原版の完成度を高めるように努力してきた人にとっては,あまり好みではない方法なのだろう。
 一方で,最終的な出力にあたって積極的な加工を施す人もある。複数の画像を意図的に重ねる「合成」は,現実にはありえない画像をつくることができる。

たとえば,公園のベンチを撮った平凡な画像であっても,

Nikon D1, AF Zoom-NIKKOR 28-80mm F3.5-5.6D

青空に伸びる飛行機雲を撮った画像と合成すれば,

Nikon D1, AF Zoom-NIKKOR 28-80mm F3.5-5.6D

ベンチに光が差し込んでいるかのような画像になるので,元の画像よりも印象が強まるようになったかと思う。

この場合は,2つの画像全体を合成しているので,うまくすれば多重露光でも可能なことかもしれない。
 それに対して,画像からある一部分だけをパーツとして取り出し,それを別の画像に合成するようなものは,多重露光ではきわめて困難。ほぼ,不可能であると言ってもよいだろう。

たとえば,公園の水飲み場を撮った画像から,水が噴き出しているところだけを取り出して,

Nikon D2X,AF NIKKOR 20mm F2.8S

チューリップを撮った画像と合成すれば,

Kodak DCS Pro 14n, AF Micro-NIKKOR 105mm F2.8S

花のなかで水を出すという,現実にはありえない画像ができることになる。

さらに,噴き出した水の部分だけを利用すれば,花から水が噴き出すという,これも現実にはありえない画像をつくることができる。

もちろん,1つの花だけでなく,並んだ花すべてが水を噴き出すようにもできる。

わざわざ書くまでもないが,チューリップ以外の花に水を噴かせることもできる。

このように撮影後の合成によってつくられた画像に対して,それは「写真ではない」という言い方をする人もあるようだ。だが,その考え方は,妥当であろうか。そもそも「写真」とは,なんだろう?そこに使われている文字から,「写真は,真実を写したもの」という解釈をする人もあるようだ。そのように考えている人にとっては,たしかに撮影後の合成とは,許されないものなのかもしれない。
 一方で,「写真」は「photograph」という語に便宜的に与えられた訳語であり,本来は「光画」と訳されるべきであった,というような考え方の人もある。そのような立場であれば,事後に合成がおこなわれていたものであっても,カメラによって撮影したものであれば,「写真」であるとみなすようだ。
 ここで明確にしておくべきことが1つある。撮影後の合成による画像を写真とよぶべきかどうか,という問題と,ほかの問題を同時に論じてはいけない,ということだ。
 ほかの問題としては,まず,写真コンテストで合成が禁止されているケースがあること。それは,そのコンテストでのルールであり,合成によってつくられた画像を写真とよんではいけない,ということが語られているとはかぎらない。
 別の問題として,報道等で写真が使われる場合の注意点だ。実際に起こった出来事を伝えるために,合成をして現実にはなかった状況をつくりだしてはいけない,という主張があると思う。しかし,それは間違っているといいたい。状況を説明するためには,あえて合成などの手法を用いるほうが,わかりやすくなる場合がある。ここで,やってはいけないことは,合成等を施したことを明示せずに,見せることである。「説明のために合成しました」と明示されているならば,問題ではない。むしろ,合成してない撮ったままの画像であっても,現実とは異なるキャプションをつけて嘘をつく手法は大いなる問題だ。

ということで,ここにお見せした「水を吐くお花さんたち」は,撮影後の合成により作成した写真である,ということを明記しておく。


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