撮影日記


2011年07月21日(木) 天気:曇ときどき晴

可部線開業日の謎
言っていることがバラバラだ。

2011年7月13日に,JR可部線は,開業100周年を迎えた。これは,横川からの鉄道路線が,可部まで到達した日から100年が経ったことを記念している。ところで,JRでは開業日を1911年(明治44年)7月13日としているが,実際にはその1ヶ月前の6月12日に開業していたとしている書籍等もある。

可部までの鉄道が開業した日を「1911年6月12日」と書いてある書籍としては,たとえば2011年7月13日の日記で紹介した,「軽便時代可部線ものがたり」(下野岩太著,1979年発行,非売品)がある。そこには,6月12日に鉄道が開業する予定であることが記されている,1911年6月11日付の中国新聞の記事が引用されている。もっとも,この書籍は(執筆者等には失礼だが),本文中と巻末の年表とで出来事の日時が一致していないなど,その内容に疑わしいところがある。新聞記事を引用して述べている部分については,まあ信用してもよいだろうが,それ以外の部分は鵜呑みにしないほうがいいかもしれない。
 この「軽便時代可部線ものがたり」は,広島市立図書館(中央,西区,安佐北区)に所蔵されている(*1)ので,広島市内に住んでいる人(あるいは,広島市内に通勤・通学等で訪れることの多い人)にとっては,閲覧しやすいと思われる。

可部までの鉄道が開業した日を「1911年7月13日」と書いてある書籍としては,たとえば「駅長さんの書いた駅名ものがたり」(駅名ものがたり企画委員会,1977年発行,東洋図書出版)がある。「駅名ものがたり企画委員会」の委員は,広島駅,徳山駅,小郡駅(現在の新山口駅),下関駅,東広島駅(貨物駅)といった国鉄の主要駅の駅長さんたちであり,国鉄の記録に基づいて書かれたものと思われる。なおこの書籍では,可部までの鉄道の開業は「1911年7月」としか書いていないが,可部駅の開業を1911年7月13日としている。
 このほかに,国鉄に取材をして書かれたことになっている書籍等では,可部線あるいは可部駅の開業日を1911年7月(13日)としているようなので,国鉄(JR)としては,1911年7月13日を開業日とするのが公式見解ということか。実際に鉄道が完成して,最初の列車が運行されたのは1911年6月12日だったのかもしれないが,正式に開業したのは1911年7月13日ということにしてあるのだろう。ただ,なぜ,この日を開業日にしたのか,そこまではわからない。
 この書籍も,広島市立図書館(中央,安佐北区)に所蔵されており(*1),閲覧することができる。
 「駅長さんの書いた駅名ものがたり」は,山陽本線のほか,可部線や呉線,芸備線など(当時の)広島鉄道管理局が管轄するエリアの各駅の開業日や背景などが語られており,読みものとしてもおもしろい書籍である。あるとき,広島市内の古書店「アカデミイ書店」でたまたま見かけたことがあったのだが,その日は買わなかった。後日そこを訪れると,すでに売れたのか姿を消しており,「やはり,買っておくべきだったか」と悔んだものである。だが,さらに後日そこを訪れると(近くへ行くことがあると,覗いてみることが多いのだ),また入荷していた。悔しい思いが残っていたせいか,こんどは迷わずに購入したのである。さらにさらに後日にも訪れてみると,またまた入荷していたことがあった。それなりに,よく売れた書籍だったのかもしれない。

さて,「1911年6月12日」というのは,線路が完成し列車の運行がはじまった日ということで間違いはないものと思われる。一方,どういった事情があるのかは知らないが,国鉄(JR)が「1911年7月13日を開業日とする」と称しているのだから,これはこれで間違いないことといえる。それぞれ,たとえば「開通日」と「開業日」とでもして,区別すればよいかもしれない。国語辞典を参照すれば,「開通」は交通機関や通信機関が使えるように完成した状態を指すようで,「開業」は営業をはじめることを指している。「開通」と「開業」が同時の場合もあれば,異なっている場合もあるだろう。書籍によっては,これらのことばをきちんと定義し,区別して使っていることもあれば,そのあたりをあいまいなまま使っていることもあるだろう。まあ,私は「鉄」ではないので,これらのことばをどこまできちんと使い分けるべきなのか,よく知らない。

ところが。
 可部までの鉄道の開業日が,1911年6月12日や1911年7月13日以外の日になっている書籍がある。
 たとえば,「新修広島市史 第五巻(年表索引地図編纂沿革編)」(広島市役所,1962年)の年表では,1911年6月14日になっている。この出典は「植木新之助日記」という個人の日記のようだが,それはどれくらい信用してよいものなのかは知らない。この「1911年6月14日」という日付は,後の「図説広島市史」(広島市(広島市公文書館)編,1989年)も採用しているなど,広島市が発行に関連している書籍で引用されつづけているように見えるので,要注意ということだ。
 可部までの鉄道の開業日は,きちんとした記録が公開されなかったのか,それともなにか複雑な事情があるのか,けっこういい加減に扱われているような印象を受ける。たとえば,先の「新修広島市史 第五巻」の年表だが,「軽便鉄道可部線,可部まで開通」を1911年6月14日とした同じページで,1910年7月に「軽便 古市橋−中原村中野開通」と記載しているのである。「中原村中野」とは,可部駅のある場所だ。つまり「可部までの開通」を,「1911年6月14日」と「1910年7月」の2回も記載していることになる。可部駅と「中原村中野」が別の場所であると,誤認したのであろうか?それとも,可部駅は途中で移転したのであろうか?
 「新修広島市史 第三巻(社会経済史編)」(広島市役所,1959年)では,可部線の建設がはじまったのを1908年8月,祇園までの開通を1909年末とし,その翌年に太田川橋まで開通し,1910年7月に中原村字中島まで開通した,としている。1910年7月の出来事が,同じ「新修広島市史」でも,第五巻では「中原村中野まで開通」になっているのに対し,第三巻では「中原村中島まで開通」になっているのである。少なくとも一方に誤りが含まれているのは,間違いないだろう。
 さて,1910年には,どんなことがあっただろうか。
 こういうときには,やはり新聞記事が比較的信用できると考えられる。「軽便時代可部線ものがたり」には1910年12月24日付の中国新聞の記事も引用されており,それによると1910年12月25日に「太田川橋まで開業」することになっている。ここでいう「太田川橋」駅は,現在の上八木駅の近く,太田川の西側にあったことになっている。「新修広島市史」に見られる「中原村中野」も「中原村中島」も,太田川橋を渡った東側の地名だ。少なくとも1910年7月には,中野であろうと中原であろうと,そこまで開通していない。
 ここからは想像である。1959年に発行された「新修広島市史 第三巻」では,「1911年7月」という開業日を1年まちがえて「1910年7月」と記載し,さらに「中原村中野」までの開通をまちがえて「中原村中島」までの開通と記載してしまったのではないだろうか。なお,この「1910年7月」という開業日は,たとえば「安古市町誌」(安古市町役場,1970年)にも引用されている。
 なにごとも,できるだけもとの情報に近いところでの確認が必要ということだ。ということで,この日記の文言やこの日記に掲載されていることは,「そのまま」使用しないことをおすすめする。もしかしたら,「わざと」ミスタイプなどをしているかもしれないぞ(笑)。

*1 http://www.library.city.hiroshima.jp/ (広島市立図書館)


追記

広島市役所編修の「可部町史」(1976年)では,「(前略)さらに四十三年七月、太田川橋をわたって中原村字中島(可部町)にいたる全線が開通した。」とある。これは,「新修広島市史 第三巻」からの引用であろう。「祇園町誌」(1970年,祇園町誌編纂委員会)は,「編集後記」によれば行政や研究家などがかかわっていないようにうかがえる。この書籍では,本文中で「(前略)四十四年七月十三日中原村字中野(可部町)まで全線が開通するに至った。」とあり,国鉄の見解にしたがっているようである。その一方,巻末の年表では1909年の出来事として「十二月十九日軽便鉄道が三篠、祇園間開通した(三篠可部間は明治四十四年六月に開通)」とある。この当時,すでに「6月」と「7月」の双方の「説」が広く流通していたということだろう。ただし「祇園町誌」では「六月」としか書いていないため,新聞記事等に基づいて「6月12日」と認識していたのか,「新修広島市史 第五巻」を参照して「6月14日」と認識していたのか,それはわからない。

ともあれ,比較的信用できそうな資料として,「1911年6月12日」と「1911年7月13日」という2つの日付が流通しているのである。国鉄(JR)の見解である「1911年7月13日」が正しいものであるとして,「1911年6月12日」ではない理由を,国鉄(JR)のほうからきちんとアナウンスしていただきたいものだ。


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