撮影日記


2010年12月23日(木) 天気:曇

ゆび編み

「よい写真に大切なものはセンスだ」ということを主張する人を,ときどき見かける。そういう人は,さらに「機材にこだわるよりも,センスを磨こう」とも言う。そのとき,「〇〇さん(←そのときどきに応じた,話題の写真作家の名前が入る)の作品は,〇〇(←たとえば安価なカメラやレンズつきフィルムなどの名称が入る)で撮られたものだ」などの実例をあげてくれることも少なくないだろう。そういうことを言う人にかぎって,その人自身の作品を見せてくれる機会には,なかなかめぐりあえない。つまりは,自分の考えている主張を語るだけのことなわけだが,その裏には「機材の自慢ばかりする」ような人たちへの嫌悪が含まれているのだろう。
 「機材の自慢をする」というか,機材のことばかり話題にするような人にも,いくつかのパターンがあると思う。たとえば,ライカなどの高級舶来クラシックカメラを収集し,愛でるような人が考えられる。これはこれで,カメラとつきあう1つの形だから,否定してはならない。別のパターンとしては,最新の機材にどのような技術が使われているか,という面に興味関心の高い人もあるだろう。そのようなつきあいかたも,否定してはならない。ただし,撮影しているときにそのような話題を振られるのは,嫌だ。
 ともあれ,写真という趣味には,どうしてもカメラなどの機材がからんでくるのである。いくらセンスがあろうとも,機材がなくては写真を撮ることはできないのである。
 もっとも,「センス」とはなんなのか,私はいまひとつ理解できていない。「センス」ということばの意味というか,それがいったい何をさしているのかということについては,機会があればきちんと聞いておきたいとは思う。

最近,ふとしたきっかけで,「ゆび編み」というものをやってみた。「ゆび編み」とは,棒針やかぎ針などを使わず,指だけでする編物である。はじめて挑んで,なんとか形になったのが,この帽子だ。

生来,私はどちらかというと不器用なので,このような細かい作業を均一におこなうことはできないようだ。だが,ただの糸が次第になにかの形に成長していく過程を見るのはおもしろい。しかも,自分の手先の加減で,さまざまにその形が変化する可能性を秘めている。公私ともに多忙な状態なので,このようなことにじっくりと取り組む時間がなかなか確保できないのだが,今後も時間を見つけてはちまちまとなにかを作っていきたい。こういう,おもしろい遊びがあることに今まで長い間,気がつかなかったことは,たいへん惜しいことをしたものだと思う。
 さて,1つがなんとか形になると,調子に乗ってしまうものだ。毛糸もいろいろな種類があるようで,いわゆる手芸店を覗いてみた。手芸店だから当然なことだが,毛糸だけでなく布地の種類も多く,革もある。東急ハンズまで足を伸ばさずとも,近所の手芸店でも革が買えるということだ。もっとも,東急ハンズほど革の種類はないので,都合のよいものは入手できないかもしれないが。ともあれ,なにかに使えるかもしれないさまざまな「素材」があるのだ。小さなビーズを1粒から買える,というのは,たちまちそれを使う考えはないものの,なにか楽しそうなことを期待させてくれるのである。中学生のころ,日本橋で抵抗器やトランジスタ,コンデンサなどを1本ずつ買い集めてラジオを組み立てたことに通じる,楽しさではないかと思えたのである。

「ゆび編み」は,道具が不要だということが重要である。洋裁をしたいのならミシンがほしくなるだろうし,ふつうの編物であっても何種類かの針をそろえる必要がある。「ゆび編み」は,自分の指を針として使うわけで,道具が不要なのだ。
 「ゆび編み」は,どうしても道具に依存しなければならない面がある「写真」とは,まったく対照的な遊びという見方もできるだろう。どちらもほどほどに,長く楽しんでいきたいと思う冬の夜であった。


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