撮影日記


2010年07月03日(土) 天気:あめ

はじめてのペトリ

大阪駅前第1ビルにあるアマチュアショップ「マルシンカメラ」には,ジャンク扱いのカメラが多く並べられているので,お店を覗くのが楽しみである。先々週はオリンパス「OM-1」を救出したのだが,このとき救出しようかどうしようか迷い,結局,救出しなかったカメラもあった(2010年6月19日の日記を参照)。もしそれらがまだ私を待ってくれているなら,ぜひとも救出してあげたい。
 そう考えて,今日も「マルシンカメラ」に立ち寄ったのだが,残念ながらmamiya/sekor 500DTLも,Pigeon 35も,すでに姿を消していた。

現在,カメラ(およびディジタルカメラ)は多くのブランドから発売されている。そのうち,メジャーな存在といえるブランドは,たとえばキヤノン,ニコン,ペンタックス,オリンパス,ソニー,パナソニックといったあたりだろう。かつてはメジャーな存在だったブランドでも,いまはその名前を聞かなくなってしまったものもある。ブランド名が聞かれなくなった事情としては,たとえば一眼レフカメラのようなマニア層から注目されやすい分野から撤退したケース,メーカーがカメラ事業から撤退したケース,メーカーそのものが消滅してしまったケースなど,いろいろある。
 このような撤退や消滅は,カメラという商品に大きな変革がおこったときに見られるようだ。たとえば,一眼レフカメラのAF化という変革があった。ミノルタ「α-7000」に注目が集まる一方で,それまでAE一眼レフカメラを発売していたフジ,コニカ,マミヤなどは,AF一眼レフカメラを発売するには至らず,35mm判一眼レフカメラという市場からこれらの名前が消えていった。
 35mm判カメラが電子化(自動露出化)する時期にも,キヤノン「キヤノネット」の成功が注目される一方で,多くのブランドの消滅が見られた。商品そのものに変革があっただけではなく,その背後にある,開発や製造の体制にも大きな変化があったのではないかと思われる。そういう時代のカメラは,まだほとんど入手できていない。そんなカメラも,安価に少しずつ集めていきたいものである。

そういう観点から,今日はこのカメラを救出した。

「ペトリ 2.8」というカメラである。「ペトリ」は「栗林写真工業株式会社」が発売していたカメラのブランドである。たとえば「アサヒカメラ年鑑1953」に掲載されている広告を参照すれば,セミ判スプリングカメラ「カロロン」と並んで,単独距離計つきのセミ判スプリングカメラ「ペトリー」が紹介されている(このときの会社名は「株式会社栗林写真機械製作所」)。これが最初に「ペトリ」を名乗ったカメラのようである。この後,1960年の「カメラ総合カタログvol.1」(日本写真機工業会)に掲載されている栗林写真工業のカメラは,「ペトリハーフ」「ペトリペンタ」「ペトリ 2.8」と,すべて「ペトリ」を名乗るようになっている。会社名にも変化が見られ,1962年の「カメラ総合カタログvol.9」ではまだ「栗林写真工業」だが,1967年の「カメラ総合カタログvo.28」では会社名が「ペトリカメラ株式会社」に変わっている。その間に,ブランド名に会社名をあわせたということだ。
 「ペトリ」というブランドからは,低価格を大きなセールスポイントとした一眼レフカメラも発売されており,カメラのブランドとしてそれなりに名の知られた存在だった。栗林の創業は明治時代後期から大正時代にかけてのことらしく,日本のカメラメーカーとしてはコニカ(六櫻社)に並ぶ老舗とのこと。とはいえ,昭和初期の「アサヒカメラ」等の雑誌を何冊か眺めてみても,「栗林」の名前は出てこない(もちろん「ペトリ」の名前も見られない)。戦後,「アサヒカメラ」復刊第1号の1949年10月号になると,株式会社栗林写真機械製作所の名前で出された広告を見ることができる。そこには「(前略)……ペトリは多年主としてカメラファンの皆様に愛好されていたファーストカメラ全種目を製造した栗林カメラ工場に於いて製作された……(後略)」とある。戦前のカメラ雑誌等でよく見かける,皆川商店から発売された「ファースト」カメラを製造していたのは,ペトリだったということのようだ。もっとも戦前の「アサヒカメラ」で「ファースト」カメラの広告を見ても(たとえば1937年7月号を見てみる),「栗林」の名前はどこにもない。小さく「First CAMERAWORKS」という名前があるほかには,発売元である「皆川商店」や何件かの特約大売捌の名前があり,さらに「レンズは陸海軍指定工場東京光学製」「シャッターは時計で世界的精工舎製」という記述があるだけだ。たくさんの名前が出ているのに,栗林の名前はないのである。ともあれ戦前の栗林自身には宣伝,販売する力がなく,今でいうところのOEMをおこなっていたということなのだろう。まあ,そういう形態が一般的な時代だったのだが。このときの栗林の役割は,ボディをつくり,レンズやシャッターを組み合わせてカメラという形に仕上げるということになるのだろう。
 ところで,ペトリの一眼レフカメラには「壊れやすい」という風評もある。私は実物を確認していないが,シャッターにトラブルが起きたときの対処方法が,説明書に記載されていたとも聞く。また,「カメラレビュー クラシックカメラ専科No.55」(2000年,朝日ソノラマ)には,日本消費者協会発行の「月間消費者」1965年8月号に掲載されていた,35mmEEカメラのテストをおこなった結果の表が引用されている。それによれば,「耐久性」という要素に「C」(500回以内に故障したもの)という評価がついているのは,そこに掲載されている7機種のハーフサイズカメラのうち,「ペトリハーフ」ただ1機種のみである。
 これらのことを鑑みれば,当時,ペトリに対しては「安かろう,悪かろう」という風評が,かなり定着していたのではないかと想像できる。

だからこそ,生き残っている「ペトリ」は大切に保護しておきたいものなのだ。さて,救出した「ペトリ 2.8」であるが,レンズがまっ白になっている。カビなのか?クモリなのか?それ以外の現象なのか?おいおい分解し,清掃に挑みたいものだが,仕事等が詰まっているので,なかなかその気にならないでいるのだった。また,距離計の二重像がかなり薄くなっている。しかしながらシャッターはちゃんと動いているようなので,なんとかレンズがきれいになってくれればありがたいのだが。ともあれ,私にとってはじめての「ペトリ」なのである。


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