撮影日記


2007年08月26日(日) 天気:晴れ

「夕凪の街 桜の国」をみる

8月5日の「ヒロシマナガサキ」という映画のチケットをいただいたとき,同時に「夕凪の街 桜の国」という映画のチケットもいただいていた。「ヒロシマナガサキ」のチケットは8月5日のフェニックスホールでの上映に限定されたものだった(2007年8月5日の日記も参照)が,「夕凪の街 桜の国」については,上映日,上映館を問わないものであった。

「夕凪の街 桜の国」の原作は,すでに読まれた方も少なくないとは思うが,コミック作品である(2005年11月12日の日記を参照)。単行本では,昭和30年ころの広島を舞台にした「夕凪の街」,平成5年ころの東京を舞台にした「桜の国(一)」,そして現代(平成17年ころ)の東京と広島を舞台にした「桜の国(二)」という3部構成になっている。そこで描かれているものは,いわゆる「ヒロシマ」に関係する内容である。広島に投下された原子爆弾が,その後の人びとの心にどのような影響を与えているか,という問題を投げかけているといえばよいだろうか。
 「ヒロシマ」を扱っている,とだけ言えば,「原子爆弾投下直後の凄惨な光景」「原子爆弾を使用した側に対する恨み」「当時の国家体制に対する批判」「その後の政府の対応に対する不満」などが全体にわたって激しく描かれている,と想像されるかもしれない。しかし,この作品ではそのような内容をストレートに描くことを,おそらくは意図的に避けているようである。「凄惨な光景」は,登場人物の過去の記憶が蘇ってくる場面で少し触れる程度であり,心の苦しみや疑問,恨みなどが語られる場面もあるのだが,なにかをストレートに批判するような表現は,ところどころに断片的に見られるにすぎない。そして,その背景にあるさまざまな要因を,読者が自分で読みとるようになっている。

映画としての「夕凪の街 桜の国」は,原作のコミックのこのような姿勢に対して,忠実につくられているように感じられる。単行本にあった「桜の国(一)」に相当する部分がうまく省略されて2部構成になっていたり(しかし,重要な内容であり,必要な内容はうまく折りこまれている),登場人物の細かい設定などが変えられていたりする。もっとも,コミックとして適切な表現と,映画として適切な表現とには違いがあるだろうから,多少の改編があるのは当然のことであろう。また,原作のコミックをなぞっただけの映画だったら,たぶん,見ていてもつまらないものになっていただろう。

「ヒロシマナガサキ」と「夕凪の街 桜の国」は,どちらも「ヒロシマ」を扱った映画である,という共通点がある。どちらも,「二度とこのようなことが起きてはいけない」という思いを,見た人に持ってもらうことを意識して制作されたものと思う。しかし,その表現方法は,まったく異なっている。
 「ヒロシマナガサキ」は,ドキュメンタリーという形をとっているわけで,多くの人の感情を直接に伝えている。また,当時,実際に撮られた映像も多用している。その結果,そこにはさまざまな「凄惨な光景」が直接にあらわれており,しかもそれは特殊メーク技術などによる「作りもの」ではない。人によっては直視できないシーンもあるはずだ。
 「夕凪の街 桜の国」は,作り話,フィクションである。また,特定の登場人物の視点から,さまざまな状況や心情が断片的に伝えられており,その背景にあるさまざまな状況は,受け手が読み解いていく必要がある。また,原作のコミックと同様に,「凄惨な光景」を描くことは極力避けられている。たとえば原作のコミックにもあった,原子爆弾が投下された直後の惨状を思い出す場面では,「被爆者が描いた絵」を用いるなどして,いたずらに凄惨さをあおるようなことはしない(原作の方でも,その凄惨さをストレートには描いていないが,登場人物の心に重くのしかかっている記憶であることは十分に表現されているといえるだろう)。

ともあれ,同じテーマを扱いながら,まったく対照的な作品であるといえる2本の映画をみる機会が得られたのは,たいへんよかったと思うのであった。


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