撮影日記


2007年07月10日(火) 天気:雨

なつかしの?ミニFM放送局

ラジオをつけると,さまざまな音楽,おしゃべり,情報などが伝わってくる。ところで,ラジオ放送のように電波を使って音声等を伝えるには,免許が必要とされている。しかし,昭和25年に制定された「電波法」の第四条には,「発射する電波が著しく微弱な無線局で総務省令で定めるもの」に関しては免許を受ける必要がないと定められている。具体的には,電波法施行規則第六条においてその電界強度の上限が定められており,それに該当するものが「微弱電波」として自由に使えることになっているのである。
 この「微弱電波」を使って「放送局」を開局することが,1982年から1985年ころにかけて全国的な大ブームになった。それはおもにFM放送帯(76〜90MHz)を利用していたため,「ミニFM放送局」と呼ばれることが多かった。FM放送帯が使われることが多かった理由としては,次のようなことが考えられる。

まず第一に,FM放送帯の微弱電波の送信機(トランスミッター)が入手しやすいことが,最大の理由になるだろう。電波を容易に発射できなければ,はじまらないのである。それはたとえばワイヤレスマイクだったり,オーディオ製品のオプションとして用意されていたり,オーディオ製品にその機能が内蔵されていたり,さらには組み立てキットとしてもあちらこちらで売られていたものである。

さらに考えられることとしては,当時はFM放送局の数が少なかったことも,大きな理由としてあげられるだろう。なかでも76〜79MHz付近はとくに少なかった。そのあたりは上記のワイヤレスマイク用の周波数だと認識されていたのだろうか,そのころのラジカセでは,ラジオ受信部の目盛の78MHz付近に印がついていて「ワイヤレスマイク」と書かれていたものも珍しくなかったものである。放送局が少ないから,それらに影響を与えたり与えられたりすることもなく,微弱電波を利用しやすかったのである。

そんな状況のなかで,「ミニFM放送局」という「遊び方」が紹介されたわけである。電波などハードウェア面の技術に興味のある人,放送番組などソフトウェア面の技術に興味のある人,そのほか放送というものに興味のある人などによって,そのブームは広がっていったようである。
 そのブームのきっかけとなったのは,「KIDS」という名前で東京の青山で活動していたグループであるとされている。そして,1986年に亜紀書房から「ミニFM全国マップ」が発行されるころまで,多くの雑誌等のマスメディアにおいて,ミニFM放送局に関する記事が何度も取り上げられていたように記憶している。そのブームが下火になっていった理由ははっきりと知らないが,3〜4年という時間の経過にともない,強い意志をもって活動しているところを除いては,自然と下火になっていったことも1つの理由として考えられる。また,残ったグループはいろいろな意味で「レベルアップ」して,だれもが気軽にまねをできる雰囲気ではなくなったこともあるのではないかと思う。そして「レベルアップ」した結果,強力な電波を発射するグループもあらわれ,それが「摘発」「逮捕」される事件も起こったりして,「ミニFM放送局」にダーティーなイメージがつくようになったことも,理由にあげられるのではないかと思う。ちなみに,「微弱電波」の規定にしたがえば,そのサービスエリア(放送を受信できる範囲)は100mくらいになると言われる。また,先述の「ミニFM全国マップ」のなかでは,当時の電波監理局はサービスエリアが500m程度くらいまでは黙認するという方針であったということが語られている。

亜紀書房「ミニFM全国マップ」
 右に開くとミニFM放送局に関するさまざまな記事を読むことができ,
左に開くとミニFM放送局のリストを参照することができる。
前からも後ろからも,どちらからも読めるようなつくりがおもしろい。
「ミニFM放送局」のブームのころにまとめられていたリストの例。

1976年に創刊された「POPEYE」という男性向けファッション雑誌がある。さまざまなファッションやサブカルチャー関係の情報を発信する雑誌であるが,そのころ中学生だった私には,その雑誌にはあまり関心をもつこともなかったようだ。しかし,FM放送を聴いていると,その宣伝を耳にする機会は多かったようで,少なくともその名称だけは知っていた。あるとき,「マイクロホン,ミキサー,トランスミッターは僕らの三種の神器だ」とのキャッチコピーとともに,「100m(ひゃくメートル)放送」の特集をしている,という宣伝が流れている時期があった。「POPEYE」は月2回の発行だから,少なくとも2週間くらい,その宣伝を聞き続けていたことになるだろうか。
 当時,たまたま私の手元に,FMトランスミッター機能をもったラジオがあり,ラジカセを接続してほかのFMラジオに音声を送ることができることは,すでに気がついていた。そのような「遊び」を「100m放送」(100メートル放送)と呼ぶということを知ったのは,1つの衝撃であったのか,ずーっとそのことばだけは覚えていたのである。そのしばらく後に,そのトランスミッター機能を利用して定期的に音声を送りだす「放送局ごっこ」をはじめたのだが,いちおう自分の中では1980年8月19日が,その遊びをはじめた日だということにしてある。
 そこで気になったのは,「POPEYE」が「100m放送」ということばを使ったのはいつか?ということである。1980年8月19日の直前だったのか?それとも何年も前のことだったのか?こんなとき,Googleによる検索は便利だ。いくつかの古書店に,「POPEYE」の該当号の在庫があることがわかったのである。そして,その号は,1979年7月25日号であることが判明した。ただ,「100m放送」ということばは,そのときすでに使われていたことばなのか,「POPEYE」がそのときにつくりだしたことばなのかは,わからない。

インターネット,とくにWWWの出現によって,だれにでも簡単に情報発信ができる時代が訪れた,とは,よくいわれることである。また,WWWでは,一方的に情報発信をするだけではなく,それをきっかけに交流の機会を得られるなど,その双方向性に特徴があるとする指摘もある。WWWでは,その対象とする範囲は,全世界である(世界的に通用する言語を使っていれば,などという制約は,ここではあえて考えない)。それ以前には,パソコン通信が似たような性格のメディアとして使われていた。ただし,パソコン通信では対象とする範囲が狭く,そのころはパーソナルコンピュータを所有し,使っている人そのものが,現在にくらべるとかなり限定的なものであったといえる。かつての「ミニFM放送局」のブームも,そのようは「だれでも情報発信ができるメディア」あるいは「双方向メディア」のような可能性に,多くの人が魅力を感じた結果だったのかもしれない。


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