撮影日記


2007年02月04日(日) 天気:晴

現代美術館のカフェでピロシキを食う

今日は,久しぶりに,比治山の広島市現代美術館を訪れた。今,特別展では「種の起源 ロシアの現代美術」が開催されている。
 誤解を恐れることなく,個人的な狭い経験にもとづく偏見をもって語れば,ロシアの「作品」というものは,全体にチープに感じることが多い。しかし,それでいて,インパクトは大きい。ここでの展示内容にも,その傾向は感じられた。たとえば,抽象画に分類されるであろう絵画には,作者の意図は理解できていないものの,見た目としてはたいへん「わかりやすい」デザインのものがあったりする。そのほかの絵画では,(おそらく反米的な)ベタなメッセージ性を織りこんだとしか思えない作品があったりもする。そういうあたりに,なんとなく,チープさを感じるのである。しかし,それらのなかには,激しく引きこまれるものがあるのも,たしかなのである。

かつて,東京への出張の機会等を利用して,神田神保町の「新世界レコード社」を訪れ,ソ連のロックやポップスと称するLPを何枚か買って聴いたことがある。それらを聴いたときにも,同様な印象をもったものである。音など,全体にチープで,どことなくわかりやすい,しかし,インパクトが強く感じるというものである。

現代美術館での展示には,写真の作品も含まれていた。
 モノクロ写真の作品は形状比較のわかりやすいものがあったり,カラー写真の作品は「エロを表現したいのか?」と思わせるような作品があったり,いずれも作者がほんとうに意図するところは理解できていないものの,少なくとも「見た目」には「わかりやすい」作品が多いように感じるのである。
 ここで,カメラ好きな者としては,これらの写真作家たちが使ったカメラが気になるのである。もちろん,いわゆる撮影データなど,そういうことはなにも示されていない。ただ,使ったカメラがハッセルブラッドやニコンではなく,キエフとかで撮っていたなら,なんとなく愉快に思えるではないか・・・・。
 写真そのものは,とても粒子が荒く,無理に大きく伸ばしているせいか,近づいてみるとアラが非常に目立つと感じる人もあるだろう。その点だけをもって,「完成度が低い」と批判したくなる人も,少なくないと思われる。しかし,それしか感想をもてない人は,写真になにを求めているのだろうか,という疑問をもってしまう。

現代美術館のカフェコーナーでは,この特別展に合わせたのか,「ピロシキとロシアンティー」というセットがメニューに用意されていた。こういうときは,こういう企画に乗せられてしまうのが楽しいというもの。このロシアンティー用に用意された「イチゴジャム」は,アヲハタのイチゴジャムのような気がしたのだが,考えすぎであろうか(アヲハタのイチゴジャムであることは,個人的には歓迎することである)。
 ピロシキは,ロシア料理として有名なものの1つであろう。それは具体的にどのようなものか,ひとことで言えば「惣菜揚げパン」ということになるだろうか。たとえばひき肉や野菜等の「具」をつつんで揚げた(あるいは焼いた)パンである。「パルナス」のCMを思いっきり刷りこまれて育った私であるが,「パルナス」のピロシキは食べた記憶がない。近所の商店街の奥の方にあった「おやつセンター」というお店(いつのまにか消え去ったようだ)のピロシキなら,買ってもらったような記憶がかすかにある。まあ,実際,ピロシキというものを食べるのは,相当に久しぶりのことであったのだった。

「ピロシキとロシアンティーのセット」
携帯電話のディジタルカメラ機能で撮影

ところで,「ピロシキ」ということばの意味はご存知だろうか?これは,日本語の「風呂敷」に由来しているのである。「風呂敷」のように,自由にいろいろな「具」を包みこむことに由来しているのだ。

 

 

 

 

 

・・・・・というのは,「ウソ」(^^; 実際には,ロシア語で「パイ」を意味することばに由来しているものらしい。


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