撮影日記


2005年11月01日(火) 天気:晴

いまさら「時刻表2万キロ」を買って読む

先週末に見物した学会のシンポジウムの後半は,パネルディスカッションとなった。それは,その日のテーマが「オタク的か,否か」というところから,話がはじまった。なお,ここでいう「オタク的」とはどういうものか,次のように定義がされた。

オタク的:目的と手段が逆転している状態。

(例)新しい電車に乗るために旅行に行く。
    (ふつうは,旅行に行くために電車に乗る。)

世間一般では,「新しい電車に乗るために旅行に行く」ような人は,「乗り鉄」と呼ばれる。これは,鉄道趣味の代表的な1つのスタイルのようだ。「乗り鉄」という趣味を世間に知らしめた本として,宮脇俊三氏の「時刻表2万キロ」という作品がある。これは,「鉄」な人(=鉄道マニア)にとっては,必読の書であるらしい。私にとって宮脇俊三氏は,世紀の大文豪・北杜夫先生を世に出した,先見の明のあるすばらしい編集者というイメージであるが,「鉄」な人の一部には,宮脇俊三氏こそが世紀の大文豪と思っている人があるかもしれない。
 なお,私は「鉄」ではないので,これまでこの作品を読んだことがなかった。今日,書店でたまたま見かけて,ふと気になり,読んでみることにしたのである。

読み始めてみると,実に読みやすい作品であることに気がつく。そして,冷静に考えてみると,その内容は,単なる「乗り鉄」の記録にすぎない。そういう意味では,一歩間違えれば,「駄文」「駄作」の範疇に陥ってしまう内容である。実際,WWW上には,多くの「乗り鉄」たちの「乗車記」が存在するようだが,それらのなかで,「情報源」という以外の意味で「読んでよかった」と思えたものに出会ったことがない。
 しかし,「時刻表2万キロ」の文章は,違う。軽い読み物として,十分に楽しめる名著といえるだろう。では,いったい,WWW上の素人による文章群と,いったいどこが違うのであろうか。思うに,乗車記録以外の「余計なこと」の含まれ具合が絶妙なのであろう。こういう文章は,マネしようと思っても,とてもマネできるものではない。
 単なる「記録」の部分にしても,なにかが違う。WWW上の素人による乗車記録であれば,よく知らない路線についての記述だと,路線地図のようなものをあわせて見ないと,なかなか理解がし難い。一方,宮脇俊三氏の文章だと,そういうあたりがあまり気にならず,すいすいと読みすすめられる。

さて,「時刻表2万キロ」を読みすすめていくと,可部線の記述も出てきた。およそ60kmという長距離の路線で,しかも,終点で行き止まりである。また,終点まで行くことができる列車の本数も少なく,可部線を乗りとおすために訪れるのは,決して難易度の低いものではないようだ。
 「時刻表2万キロ」での「旅行」は,あくまでも「乗り鉄」としての「旅行」である。したがって,終点の駅で観光などをすることなく,数分後には折り返してしまうケースも多いようだ。ところで可部線の終点である三段峡駅について,宮脇俊三氏は,駅名は三段峡だが,本当の三段峡よりもずいぶんと手前につくられた駅である,という意味のことを書いている。
 おそらく,宮脇俊三氏は,「三段滝」と「三段峡」を勘違いしているのだろう。たしかに「三段滝」は,「三段峡」中のもっとも有名な見どころであるが,数ある見どころのうちの1つにすぎない。「三段峡」は,この峡谷全体を指すものであり,駅のすぐそばから「三段峡」がはじまっていたことが「三段峡」の特徴である。「三段滝」を本当の「三段峡」であると認識しているようでは,三段峡のことをなにも知らないに等しいだろう。

まあ,「乗り鉄」の記録として書かれた文章における,「三段峡」の認識の正確性に目くじらをたてても仕方ない。「時刻表2万キロ」は,正確な各地の情報を得るための「情報源」ではなく,作者といっしょに旅を楽しむ「読み物」なのである。ノンフィクションのルポルタージュではなく,軽いエッセイとして,読むべきものであると考えればよい。ただ,もしも,宮脇俊三氏の記述を根拠に,「三段峡駅は本当の三段峡から遠いところにあるから,観光客に十分に利用されず,可部線が廃止になったのだ。」のような,トンチンカンなことを知ったげに語るヤツがいたなら,そいつには「世紀の大馬鹿者」という称号を与えてあげよう。


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