撮影日記


2004年01月31日(土) 天気:晴

作木の細道

広島と「日本史」

大阪に住んでいると,なにげないところに,日本史的大事件に由来する「お話」があったりする。たとえば,大阪市阿倍野(あべの)区には,「北畠(きたばたけ)」という町がある。南北朝時代に,南朝方の北畠顕家(きたばたけあきいえ)は阿倍野で戦い,討ち死にしたとされている(1338年)。実際に死んだ場所は堺市になるらしいが,阿倍野区北畠には,北畠顕家の墓とされるものがあったりする(現在の墓碑そのものは,江戸時代につくられたものらしい)。
 南北朝の争いは,鎌倉幕府という武家勢力から,政治の実権を朝廷に取り戻そうとした後醍醐天皇の野望に始まったといえるだろう。ところで,鎌倉幕府から実権を取り戻そうとする朝廷の動きは,後醍醐天皇以前にもあった。たとえば,後鳥羽上皇が関わった事件として,承久の乱(1221年)というものがあった。この企ては失敗し,後鳥羽上皇は,鎌倉幕府によって,隠岐に流罪となってしまう。
 ところで広島という町は,とくに市内中心部付近は,日本史的な大事件とのかかわりが薄いような印象がある。戦国時代を除けば,多くの事件は近畿地方あるいは京都と関東とのせめぎあいの中で起こっているということもできるだろう。したがって,広島はその舞台とはなりにくかったのだろう。

後鳥羽上皇御陵

前週は,かなり凍結した常清滝の姿をとらえることができた。また,この機会に,常清滝だけではなく,その周囲のものも被写体にすることに決めた。今日は,そういう被写体を探しにでかけてみた。そうすると,作木村周辺は,後鳥羽上皇とのかかわりが深い地域のようである。具体的には,流罪になった後鳥羽上皇は,隠岐を脱出し,現在の作木村香淀あたりに潜伏して,ふたたび鎌倉幕府に反旗を翻すことを企んだという。しかし,再び行動を起こすことはなく1239年に崩御し,香淀の奥の大山というところに葬られたという。そこには,後鳥羽院御陵と伝えられる場所がある。
 大山地区へ行く道は,あまり広い道ではない。また,勾配がかなりきついところもある。しかし,交通量が少ないせいか,走りにくいという印象の道ではない。そのまま進んでいくと,道の脇に小さい標識と説明板があり,後鳥羽院御陵であることを知ることができる。なお,途中で少し道をそれると変電所があり,その奥は公園として整備されている。周辺の山々がよく見える場所だ。
 ところで,高宮町の式敷という地名も,後鳥羽上皇に由来する名前であるとのことだ。

秋には再び訪れたい

次は,これまでほとんど訪れたことのない作木村の北部へ向かう。三江線の伊賀和志駅のところから谷に沿う道を上がっていくと,やがて,摺滝という地区に至る。ここには,植物化石群が確認された露頭(地層が露出している場所)が保存されている。これをさらに東へ,森山という地区へ進む。ここには,立派なサイジョウガキの木がある。今日は,実も葉もすべて落としている状態だったが,実のなる季節に,ふたたび訪れてみたいと思わせてくれるような,立派な木である。
 さらに北へ進み,岡三淵という集落に向かう。この集落は,そこまでの道中と違い,やや傾斜も緩く,広くなった地域であると言える。ここには,「殿敷」と呼ばれる,古い民家が保存されている。今日はちょうど補修工事の最中であった。3月下旬に落成式が予定されているとのことである。背後には大きなイチョウの木もある。次の秋には,ぜひとも訪れてみたい,そんな場所が1つ増えた一日であった。
 今回のルートの特徴としては,どこまで奥に行っても,小さいながら集落が存在することがいえる。そして,それらが面的に広がっているせいか,細い道が縦横につながっているという印象がある。何度か通わないと,地図なしでは道に迷ってしまいそうだ。今回は,1:25,000の地形図を用意して訪れた。


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