撮影日記


2002年11月27日(水) 天気:くもり

可部線存廃問題に思う(4)

まだ諦めるには早い

JR西日本は,11月30日に,国土交通省に対して,可部線の可部−三段峡の区間の「廃止届」を出す予定だという。今日の報道によれば,加計町や戸河内町の町議4名が,JR西日本に対して,可部線の廃止届を出さないでほしいという「要望書」を提出したとのことである。また,今後,国土交通省に対しても,JR西日本が提出する「廃止届」を受理しないで欲しいという「要望書」を出す予定があるとのことだ。まだ,存続に向けて努力を続けている人は,ほかにも多くいることだろう。
 先々週,戸河内町,加計町が,第3セクター方式による路線運営を断念したという報道があった。この「決断」そのものは,財政的に無理をして将来への債務を抱えることを避けた,という意味で評価できると考えている。もっとも,この「決断」の根拠となった,将来の赤字額などの数値については,それがどういう根拠から算出されたものかはわからない(わかったとしても,それが正当な数値かどうか判断することはできないと思うが)ので,そのまま鵜呑みにすることはできない。
 だから,「やはりなんとかJRにお願いしたい」という方針は,加計町としては間違っていないだろう。ただ,この要望書を提出した人たちのなかには,町長あるいは議会の議長といった,一般的に町の「トップ」といえる人は含まれていないようである。ということは,町として,徹底して存続を目指すというコンセンサスは存在していないと想像できる(あるいは,少数だが手ごわい存続反対派の存在などが予想される)。実際にはどういう状況なんだろうか。

鉄道の必要性とはなにか

収益のことを考えなければ,鉄道路線は,どんな閑散路線でも利用する人がある限り,ないよりはあった方がいいに決まっている。逆に,どんなに存続を求める人が多くあったとしても,運営においては赤字はない方がいいに決まっている。赤字が発生する場合の問題は,その赤字をどこまで圧縮できるかということと,どこまでの赤字なら許されるか,ということである。
 可部線沿線では,可部線を「生活のために必要」と訴え続けてきていた。しかし,それ以外の地域においては,その訴えを「一部地域のエゴである」という見方をする人もある。このような見方を変えさせることができれば,たとえば「どこまでの赤字なら許されるか」の「どこまで」の基準が変わってくることも考えられる。可部線存続運動における,中山間地域と都市部とのいわゆる交流事業は,その面での貢献がかなりあったことと思われる。
 ここで不思議なことがある。たとえば現在ではほとんど無用という意見も多い(むしろ環境を破壊するだけと言う批判もある)大規模林道などの過疎地の立派な道路について,この建設を「一部地域のエゴである」と批判する声は耳にすることがない。赤字ローカル鉄道路線に批判的な声が目立つことについては,2つの理由を想像している。1つは,大規模林道のような問題があまり知られていないことがあるのではないだろうか。もう1つは,国鉄時代の末期に赤字ローカル線は「田舎政治屋のエゴによるものである」などのダーティなイメージが植え付けられてしまっているのではないだろうか。このように想像している。まあ,私個人の見聞が狭いだけかもしれないが。

ライフスタイルを見直す機会として

いわゆる都市部では,大量の自動車の流入による,交通渋滞や環境の悪化などが問題視されている。それに対して,都市中心部への自動車の乗り入れを規制しようとする考えも,多く提案されている(中山間地域の人からみたら,都市部の人のエゴに見えるかもしれない)。そうすると,どのようなことが起こるだろうか。
 究極には,中山間地域から都市部へ,マイカーで自由に移動することができなくなる,ということである。そのようになったときには,郊外と都市中心部を結ぶ公共交通機関が整備され,その公共交通機関の乗り場までマイカーで移動して乗り継ぐという「パークアンドライド」という方式がよいと考えられているようだ。これは,ドアツードアで移動できるというメリットを享受している,現在のマイカーを中心としたライフスタイルの変革を余儀なくされるとも言えるだろう。それは,将来,都市部に住む者にとっても影響のあることであると想像する。
 可部線の存続運動においては,いくつかの駅周辺には,パークアンドライドに利用できるような駐車場が臨時に整備されていた。可部線存続問題は,人々がライフスタイルを見直すきっかけを与えていたのかもしれない。


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