撮影日記


1997年10月15日(水) 天気:晴れ

写真はアタマを使うべし

以前の「撮影日記」を読み返してみると,私はフィルムの消費ペースが非常に遅いことがわかる。これは,自分なりに納得しないとシャッターを押さないためである。しかし,最近は「早く現像したい」という思いから,あまり考えずにシャッターを押すことが増えてきた。
 そのせいか,ここしばらく,撮影したポジの整理が滞っていた。1コマずつ切り離してホワイトパックし,マウントしているのでけっこうな手間がかかるのである。したがって,撮影するペースがあがると,だんだんと整理が追いつかなくなる。ただ,このやりかただと撮影日など簡単なコメントがコマごとにマウントに記入できるというメリットがある。失敗したコマはマウントせずに捨てればよろしい。最後にスライドボックスに収めるが,ジャンルごとに並べかえたりすることが容易だ。スキャナで読みこんだり,プリントを依頼するときも,必要なコマだけを取り出せるので便利である。
 いま,ぼちぼちと整理を進めている。ここ数カ月に撮影した約200コマを見ていると,フィルムによっては「けっこう撮れているコマの多いもの」と「つまらないものばかり撮っているもの」にわかれていることに気づく。撮影したときの状況を考えてみると,やはりごく短時間に狭い範囲で集中的に撮影したフィルムには明らかな失敗作がめだつ。逆に,長い時間をかけてあちらこちらで撮り回ったフィルムの方には,けっこういけるかな,と思えるコマがある。
 このことは,なにを意味しているのか。
 やはり,仕上がりを予想し,じっくりと考えて被写体に向き合い,ほんとうに必要な状況,自分のイメージどおりの絵が得られる状況になった瞬間を見極めてシャッターをきらなければダメということだ。
 もちろん,モデルなどを被写体とするポートレート撮影やひとびとの生活を記録するようなスナップ撮影などでは,一瞬の表情の変化や予想もしなかった絵になる瞬間を切り取るために,じっくりとその場で考えているような余裕はないかも知れない。ただし,そういう撮影をする者は,事前にそれなりの勉強をしているのではないだろうか?
 結局,アタマを使わねば,自分が納得する写真は撮れないということだ。
 自分が撮りたい写真は,どの程度じっくりと考えて撮るべきなのか,再考してみるのはいかがだろうか。


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